梅雨の足音に思い出す

今日は思い出話的な日記と小話。それを人はエッセイと呼ぶ。
 
毎年この位の時期になると思い出すことがある。「東京(関東)の梅雨は寒い」と言うことだ。幼少期の体に染み付いた感覚は大人になっても消えることなく、季節が移り変わるにつれて「あぁそう言えば」と仕舞いかけた上着を再び引っ張り出す。
 
言語形成の主軸となりそうな期間の殆どを大阪で暮らしていた。京都にほど近いその土地は、京の地と大差なく夏場はとても暑い。東京に出てきてから「コンクリートジャングル」と言う『舗装されてない地面が熱を持つ』と言う言葉を知ったけど、風がほぼ通らぬ海から離れた地はそれと大差ない程度には暑かった。梅雨時期も然りで、空気の滞留により熱が溜まり続ける。梅雨時期はいつもじめっと蒸し暑かった。夏になってからも、蒸し暑さがなかなか抜けきらず、それ故に熱中症なんて『いつものこと』だった。子供心に、関東の地で初めて過ごす梅雨が寒かったことに妙な違和感を感じていたのも懐かしい。

 

半袖で過ごすことにも躊躇いがなくなったここ数日、それでも時折吹く風は冷たい。ここが海に近い所為も多少あるだろう。大阪にいた頃は日陰すら暑かった気がする。子供の頃の話だから、もしかしたら記憶違いかもしれないけど。だが、夏の関西の地には二度と帰りたくない…そう思わせる暑さを肌が覚えているのはまた事実だ。
 
日が暮れかける空を眺めながら「今年の梅雨はどれくらいだろうか」と思いを馳せる。短い方が生活としては助かる反面、梅雨時期が短いのは水源の枯渇に繋がりかねない。と、同時に、短期間だと豪雨になる可能性も高い。期間が短いと言うのは物事を詰め込まれるという事になる…と言うのは、人だけじゃないんだな、なんて思ってみたり。まぁ、長くても最近は豪雨率高いんだけど。
 
毎年異常気象が観測されるようになって、「普通の四季」はもう戻って来ないのかなぁ、なんて時々考える。沈むのが先か、渇れるのが先か。きっとスーパーコンピューターとかなら将来がどうなるのか見えているかもしれないけど、私にはそこまでの先見の明は無いし。環境施策が小銭稼ぎと化している日本においては、スパコンが頑張ってもあんまり意味無さそうだ。
 
広い視野を持て、と言うけど。広いってどのくらい広ければ良いんだろうな。
考えたことあります?