世の中の「こうであれ」と自分は「こうである」は同じにならない

これはエッセイであって解決策ではない。繰り返す、これはエッセイであって解決策ではない。
 
突然ですが、この記事に興味をお持ちになった貴方。自分のことをどれだけ「断言」出来ますか?「Aが好き」「Bが嫌い」は言えるのかもしれないけど、「自分は◯◯な性格だ」「自分には□□を苦手としている」「自分は△△が得意だ」など、「断言」と言うより「多分」が前置詞として着きそうなことが多かったりしないだろうか。特に日本人は。逆に「私って◯◯な所があるじゃん?」って同意求める系にハッキリ言える人すごい。客観視した時に合っているかどうかは横に置いておいて、その揺るがぬ自信は称賛に値する。
(※実際のところは「そんなことないよぉ」待ちだったりするんだけど)
 
なお、私は正直なところ、自分で思う自分の性格と客観的に見た私の印象が違い過ぎて、どっちが本当なのか度々わからなくなる事がある。私のことを知ってくれている人達は私に芯が通ってるとよく言ってくれるのだが、そう見えて、結構ブレる人間だったりするのだ。
 
前書き終わり。

 

就活、現在進行形で頑張ってる方はお疲れ様です。もう既に社会人経験積んでらっしゃる皆様もお疲れ様です。
就活時代にやってた「自己診断」の話を今になって思い返してみる回です。
一応紹介しておこう私のスペック:
リーマンショックの影響だったか…就職氷河期勢、大卒後半年ニート。その後3年半フリーター。
27歳、業界未経験の正社員として就職。
30歳、同業大手に転職。33歳、現在就労中。
 
転職活動やる時も思い返すべく色々やってみてはいたけど、「自己診断」がいまだに難しい。自分が何が得意で、何が苦手なのか。実際「こう言うのは得意だと思う」と思ってみても、付随する何かしらの理由を持ってして好き好んでやっている、と言うのが現実だったりするし(つまり全般としては得意ではない)、これ苦手なんだよな…と思っていてもやり始めたらすんなり進んでしまって実際は「苦手意識があるだけでやりゃぁ出来る」だったりするし。
 
入社試験の代名詞とも言える「SPI」。適性検査、とも呼ばれるそれには「正解」があるらしい、と知ったのは実は最近のこと。いやアンタ、適性があるかどうかを調べる為の試験なんじゃないのか、と率直に思った。「正解がある」って、没個性も大概にしてほしい。その通りに回答したとして、それで上手くいって自分の人生に納得出来るのかって言われたら私はNOだ。だから大卒ニートになったんだよ(ただの自虐)
 
確かにSPI攻略本みたいなの合った気がするけど、それを攻略する重要性を当時の私は見出せなかった。最終面接まで行ったことは何度か合ったんだけど、結局その適性に合致しない自分が露見して落とされた気がする。よく皆そんな仮面被って頑張れるね、とリタイアしたのが私にとっての正解だったのかもしれない。
 
世間(会社)が求める「こうであれ」って、最近は特に「新卒でも即戦力になり得るポテンシャルの持ち主を!」みたいな馬鹿げた話から成り立っている所がある様な気がする。新卒って年齢的には立派な大人なのに、最後の最後で「大人が求める理想の子供像」を押し付けられていると言うか。それで居て上手くいかないと失望したとか出来ると思ってたとか余計なプレッシャー与えてくるんだよ?めんどくせぇな?
 
世間にとっての「こうであれ」が自分にとって納得できる姿なら良いのかもしれない。演じるのが苦じゃない姿、とでも言おうか。「こうであれ」と自分は「こうである」がニアリーイコールで繋がるんだったら、多分上手くいくんだと思う。でもそこがノットイコールだとね、恐らく1年以内に精神病むよ。これは予言。
 
もしかしたら、既に社会人と言う立場にいるから言えることなのかもしれない、と言う気持ちは多少なりともある。でも今の私は、没個性の向こう側に行ってしまった、なんて1ミリも思ってない。オトナになったからこそ、自分のやり方を見つけられるってこともあるのかもしれないよね。